今週のサムライ8八丸伝 第29話「義常の義」感想 (ジャンプ1号)
骨河、本当は可能性「2%」なんかじゃなかったんですね。 だったら・・今からでも「侍」になれそう。 だけど、今週号読んでたら「侍になること」が必ずしも幸せなのかなぁ・・とも思えてきた。 骨河は「侍」になる道を選ぶのか、それとも「今のまま生身の人間でいること」を選択するのか、どっちなんだろう・・・?
(ちなみに骨河の本名は三打。もし侍になるなら、骨河が「パンドラの箱の侍」である可能性もあるような・・ そして弁も、さらには竜も可能性があるような気がしていますが・・・はて)。
さて、今週のタイトルは《義常の義》、そして扉絵は骨河の父・義常と母、それと幼い骨河。
幸せそうな、在りし日の「遮那家」の肖像。 だけど、ん~・・ちょっと違和感もある。「父親だけ」なんだか違うんですよね。
母親(姫でもある)は、幼い骨河に手を差し出して 優しく慈愛に満ちた表情で見つめているのに・・義常はまっすぐ遠くを見て、家族を見ていない。
口をへの字にして、すっごく険しい表情しちゃって・・・良く言えば昭和以前のオヤジのように「家長として威厳がある」んだけど、なんだかなぁ〜・・ この絵が「この家族の在り方と義常の生き方」を物語ってるように見える。
タイトルでもある 義常の「義」(侍としての役割)とは《代々この星を守り続けてきた 遮那家の当主として、次の代へつなげること》。 息子を後継者として侍にすること・・それが義常の「義」だったんですね。
だけど義常さん、名前の通り「常に義あり」だったんだろうか。 侍としての「義」を大切にするあまり、本当に大切なものを見失っていたように見える。 本当は「愛する家族を守り、大切に子を育て、家を守る」ことが大切だったハズなのに、「義のために家族や子供が存在する」みたいになっちゃてる。 本末転倒のような・・
だけどコレ義常さんだけの問題だけじゃなくて、《侍世界全体の問題》のような気がします。 侍の世界も、なかなか闇が・・・深い。
で、思うのは (26話の感想でも触れたけど)、侍は 「散体(侍の死)」を恐れ、武神のご機嫌を損なわないようにビクビクしながら生きてるようなイメージがあるということ。
侍の最期は「なぜ?」と焦り戸惑い、武神に恨み言を言いながら失望の中で「散体」してしまう。 侍の「死に様」はあんまり格好良くない・・(全ての侍がそうじゃないだろうけれど)
骨河が26話で言ってた《(侍は)武神にビクついてるサイボーグ共》という発言は、生身の人間から見た「率直な印象」なんだと思います。
もちろん遮那家の悲劇は《弁の陰謀》のせいであって、弁の裏切りが無ければ 今頃骨河は遮那家の後継ぎとして侍になり、両親も健在だった事でしょう。 その幸せをぶち壊し奪ったのは、弁形・・・「悪いのは弁」であるのは間違いない。
だけど、重要な問題は「そこだけではない」と思うのです。 弁が何故こんな裏切りに出たのか、そして何故 弁の陰謀がこんなカタチで成立してしまったのか。 そこに問題の本質があるように思えるのです。
そこで、ちょっと気になる「弁のセリフ」をいくつか取り出してみると・・
(「師への忠義も全く無しか」という達磨の問いに)
「いや・・・あったさ」
「義常はくだらない家柄に固執し 己を縛り苦しんでいた」
「だから弟子のオレが苦しみから解放して救ってやったのさ」
この弁の弁解に、達磨は激怒して「都合のいい解釈だな おぃ」「てめーは2度と義常の弟子を名乗るんじゃねェ!!」と熱くなっちゃってますね。 達磨って・・意外と沸点低いのね(猫師匠モードの時は そんな事無さそうなのになぁ)。 でも、達磨がこんなにも熱くなっちゃったのは、《弁とアタが重なって見えた》からなんだと思います。 アタも、自分の目的の為に 達磨から全てを奪ったのだから・・
しかし、弁が言ってる《義常はくだらない家柄に固執し 己を縛り苦しんでいた》というのは、弁の勝手な こじつけでもなく「事実」でもあったと思います。 義常が、いかに義に囚われて自分を見失っていたか・・・それがよく分かるのが、「息子・三打(骨河)が侍になれる可能性は2%以下」判定が出ちゃった日の、両親の「反応」です。
この2%以下判定も「弁が骨河と他人の血を入れ替えちゃった事」による陰謀だった訳だけど、こういう「家族にとってまさかの時」にこそ、「その家族の姿」ってのが露見するもんなんですよねぇ~・・。
で、その時 母親の反応は・・《そんな・・あの子がどれほど苦労して》だった。 母ちゃんは、あんなに頑張ってきたのに《息子がかわいそう》と、息子の気持ちを想って悲しんだ。 それに対して義常父ちゃんは・・《あの子は失敗》《家の恥にしかならぬ》と言ったうえに《別の子を取る他ない》とまで言った。
義常は《息子がかわいそう》なんじゃない・・《自分がかわいそう》になっちゃってる。 家長として自分が恥をかく、自分の「義」を守れない、このままじゃ自分が「武神に見放されてしまう」と恐れ、狼狽えている。。 侍は「義=自分の役割」を果たせず己の負けを認めた時、武神に見放されて散体して死んでしまう。 だから、義常は必死になっちゃってますよね・・
嫌がる息子に無理やり切腹を迫る義常は「義」にこだわるあまり、「本当に大切なモノ」を見失ってる。これじゃ侍にとっての「義」は、まるで「呪印」じゃないか・・と思います。
弁が言う《義常はくだらない家柄に固執し 己を縛り苦しんでいた》というのは、事実でもあったような気がします。
それと、弁はこうも言っていますよね・・
「親子・・師弟の繋がりなんてこんなもんだ」
「お前(骨河)とオレはシンプルに「金」で繋がる」
こんなもん・・って言葉の響きが なんだか悲しい。
かつては「忠義はあった」と言う弁は、いつから何があって《親子、師弟の繋がりなんてこんなもん》と考えるようになってしまったんだろう? (免許をダウンロードさせてもらえなかったのも1つかもしれませんが)。
シンプルな「金だけのつながり」・・それは《余計なしがらみ無しに、数字だけで評価する》つながりでもあります。 弁がそんなドライな関係を理想とした背景には「自分への評価に対する不満」があったのでしょうか。 それは、弁が「遮那家」など名門の血筋ではないとか、鬼一族(アタもそうなのかな)であるせいとか、様々な理由が関係しているのかなぁ。
かつては忠義が「あった」という弁が、つながりを「そんなもん」と思うようになってしまった背景には、きっと根深い侍世界の問題があるんだと思います。 だから、それを簡単に《私利私欲の為》と片付けてしまったのでは、問題の本質には届かないような気がするのです。
(真実を知った骨河は、真剣な目つきで八丸たちに謝り、力を貸してくれるように「頭を下げて」頼んだ。 他の侍たちは「今さら卑怯者が侍ぶって土下座かよ」と言ったけど、八丸は「頭を下げて詫びる姿 オレにとっては一番侍らしく見えるよ」と言った・・・)
思うに「形式だけにこだわり、頭下げてペコペコしてる侍」って意外と多いんじゃないかと・・・ だけど、骨河の土下座はカタチでやってるわけじゃなく、心からの謝罪とお願いだった。 得た情報から自分で判断して「自分で決めて、心から謝った」。
カタチにとらわれて、自分の正直な想いや大切なモノを忘れてしまってる「侍とやら」よりも・・カッコ悪くても 自分の気持ちに正直な骨河のほうが侍らしく見えるような気もする。
「侍らしい」については「自分で決められること」とも八丸が(というか達磨が)前に言っていたが、その点でも義常は「自分の考えに自信が無かった」みたいだった・・
見定めの儀式の前、弁に「お前から見て息子の三打はどう思う?」と聞いて「素質は充分かと」と言われて安心したり、「可能性2%以下」と言われて失望した後も 弁に「ご子息なら可能性があるのでは」と言われたら「お前は昔から信用のおける奴だ・・」と言って試す気になってみたり。 いちいち弁に聞いて確認してるんですよね。 自分の思いを信じるんじゃなくて、信用できる他人を信じてる。 客観的な「数字による判定」に決定を委ねるのと同じで、義常は自信が無かったのかなぁ。
義常は「立派で強い侍」と言われて、そのイメージを守らなくちゃいけなくて・・実はすごく孤独な人だったのだと思います。 本当は、大切な家族がそばに居たってのにね。。。
達磨のお師匠さんは「大切なものは まやかしによって隠れ 本質を逆に見せる」と言っていましたよね。 何がまやかしで何が真実か分からない世界に於いては、「自分が信じるものを信じる」ことが大切なのかもしれません。
さて・・「真実」を知って怒りに震える骨河ですが、今度こそ このあと どう出る?? 八丸たちと協力して「遮那家の血を継ぐ才能」を見せてくれるのか?
でも、もっと気になるのが骨河が《弁をどうするのか》という点なんです。
骨河が、憎き親の仇に対して《かたき討ち》をして終えるのか、それとも許して《再び弁と仲間なる》のか。 これ、すご〜く重要な点だと思うんです。
なぜなら、同じように《親の仇であるアタを討つこと》を目的としている八丸の今後に、その結果は大きく影響すると思うから・・
今のところ アタも「弁解の余地なく悪い奴」に見えるんだけれど、アタが敵側に回ったのは《色々あったが簡単に言うなら私欲のためだ》と達磨は言っていた(15話より)。 「色々あった」って略しているけど、どんな色々だったのか。 「簡単に言うなら私利私欲の為」で済ませられるほど、単純な事では無かったのかもしれない。
同じく弁も「簡単に言えば私利私欲の為」と言えるけど、おそらく そこに至るまでにやっぱり「色々あった」はず。そういう意味で、弁とアタはちょっと似ている。だからこそ、この先骨河や八丸達が「弁をどうするのか」という結果は、八丸(あるいは達磨)の未来にも関わってくるし、もっとも大きく言えば《この物語の方向性》にも関わってくる。 この先の展開を占う大切な決定になると思うんです。
とりあえず、かつて「2%以下と判定された」骨河の可能性に期待し、ついでに(鍵である可能性は)「1%と判定された」弁の可能性にも期待してみようと思います。 ぜひとも、彼らには《可能性1%、2%からの大逆転》を見せて欲しい!
☆さて次週は・・達磨は、分析して「先手を取れ」と言ったけれど、ここからは「分析して先手を取るのが得意」な八丸の魅せどころですね。ぜひ師匠に負けない、かしこい八丸ならではの格好良さを魅せて欲しい。
☆今週の絵、《ゆらゆらと水面に写る弁形の顔》が秀逸でした。 今回の回想は「弁の記憶」だから、本来なら自分の顔は見えないはずだけど、「足元の水面に写る自分の顔」なら見える。 しかも、前に立つ義常にはそれは見えてなくて・・まさに「他人に見せない心の表情」。しかも、後のほうは血に写る顔はというね・・ それに、骨河の心を語る「目」も印象的だった。
☆千隊長、戻ってきましたか。 人型ホルダー、千さんがやっつけてくれたのかな? 彼は何者なんだろうな・・
☆ところで弁の「義」って何なんでしょうね・・?(もう出てたっけ・・?)
☆NARUTOの「水面描写」について、あっちこっちの記事に書き散らしているので;まとめて加筆して、近日中にNARUTOのブログのほうでアップしてみようと思います)
☆長駄文、読んでくださって感謝。
ナルト好きブログ!もよろしくね。
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